静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ4月号巻頭言

春よ来い
司祭 エドワード 宇津山武志

この冬は氷点下の寒い日も何日かありましたが、春の訪れは思いのほか早く、お堀の桜ははやくも見ごろです。最近、娘がガーデニング…と言っても、小さなベランダのプランターですが…に夢中です。目でも楽しみますし、ハーブ類は食卓にも。わたしも牧師になったころは軒先にハンギングを吊るしたり花壇を作ったりして楽しんでいましたが、やがて目の前の忙しさに追われて、ほとんどしなくなってしまいました。娘の記憶の奥の方には幼稚園の頃の庭の情景が残ってくれていたんでしょうか。そんなことを思いながら微笑ましく眺めました。
大斎節と訳する“Lent”は、春を意味する古英語の“Lencten”に由来します。これは“Lengthen”(長くなる)と語源を同じくする言葉です。冬至の頃のイギリス。日の出は8時頃、日の入りは4時前と、日本人のわたしたちからすると、日の短さに憂鬱な気分になります。まさに“闇の支配の勝利”といった印象です。冬至のお祭りがクリスマス、救い主の誕生の祭りに変わり受け入れられていったというのにも頷けます。世の光なるみ子の到来によって、闇の支配が打ち破られるからです。そうして次にやってくるのが春を待ち望む“Lent”です。冬の固く茶色い地面から命の気配を感じるのはなかなか困難です。しかし日が長くなるにつれ、何かの合図に促されるように、一斉に芽を出し、花を咲かせます。一つの命は死で終わるのではなく、新しい命に再び生まれるのです。
こうしたことを神学的な“説明”を通して“頭で理解する”のではなく、自然の中に生きるものの“体験”を通して“心の奥の方で感じ取っていく”のでしょう。こう言ってしまうと神学を否定しているようですが、神学とは、 “日常体験”を“宗教体験”へ、“単なる出会い”を“神との出会いへ”と昇華させるためのとても大切な道具です。
主は言われました。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイ6:28・29)
わたしたち自身を花にたとえてみましょう。上の文脈では、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」と続きます。必要なものは全て神さまが備えてくださる。あるいは一歩進めて、救いのためにあれやこれやと飾り立てるべきではないと受け取ることができるでしょう。ここで少し視点を変えてみると、多様で複雑な社会と時代を生きるわたしたちは、たとえていうならプランターに植えられた花です。花を咲かせるためには、必要な栄養が施され、水が与えられ、太陽の光をしっかりと浴びなければなりません。光は葉っぱに、水と栄養は根っこに、適切なお世話が必要なのです。それが大斎節の一つの意味とも言えるでしょう。ご復活の朝、主の光、聖卓の養いを心の一番深いところで受け止め、命の花を咲かせましょう。ハレルヤ!
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