静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

主日のみ言葉 聖霊降臨後第25主日(特定28)

2021年11月14日
聖霊降臨後第25主日(特定28)
特祷
主よ、どうか主の民の心を奮い立たせてください。わたしたちが喜びをもってみ業にあずかり、その深い恵みによって、み助けを受けることができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
旧約聖書 ダニエル書 12:1〜4a
使 徒 書 ヘブライ人への手紙 10:31〜39
福 音 書 マルコによる福音書 13:14〜23
お手許にに聖書・聖書日課がなくても、インターネットに接続できる環境から「ユーバージョン」(bible.com)などで読むことが可能です。
今日のみことばから
教会暦の一年も、主日で数えますと本日と来週をもって閉じようとしています。
教会暦の一年は神の人類救済の歴史を象徴的に記念し追憶します。つまり、救い主の到来を待ち望む降臨節に始まり、その救い主による救いの完成に終わる。そういうわけで、本日の聖書日課は終末のイメージを色濃く示しています。旧約のダニエル書は「黙示文学」に分類され、福音書に選ばれているマルコ福音書のこの個所は「小黙示緑」とも呼ばれているものです。使徒書も含めて、本日の聖書日課からはどこか終末の「恐ろしさ」のようなものを覚えるのではないでしょうか。
科学技術が著しく発達した現代、このような黙示文学を理解する、その真意を理解するのはなかなか困難です。わたしたちはこれをまずは正しく理解しなければなりませんが、取り違えると、わたしたちは「非現実的な絵空事を声高に叫ぶ人たち」、あるいはもっと進むと、終末の恐怖ばかりを強調して信者を獲得しがんじがらめにしようとするキリスト教セクト、カルトと化してしまいます。
わたしたちがその母体であるユダヤ教から受け継いだ大切な考え方、それは、世には「始まり」と「終わり」があるということです。本日の福音書がわたしたちに訴えていることも、「その日」がいつかということではなく、その日が訪れるということ、しかもそれは「救いの日」だということです。では「世の終わり」について考えてみるとどうでしょう。「世の終わり」、これもある意味で現実味を欠いたもののように思われます。宇宙のサイクルにおいては星にも一生がある、太陽にも一生がある。だからこの地球にも一生がある。つまり終わりがある。そのことはよくわかりますが、ただそれがあまりに大きなサイクル過ぎて、現実味を帯びません。いよいよこの地球に終わりの時が近づいたとき、そこに生きる人間はいったいどうするんだろうかと、時々ぼんやりと考えてみたりもしますが、その時の科学力でどこかの星に移住でもするんだろうかとか、皆目見当がつかない。
もう少し短い、そして身近な一生、それはほかでもないわたしたち自身の一生です。これとて、わたしの年齢ではまだ切迫感を持たない、あまり現実味がありません。特別なことがなければ、おそらく来年の今頃もこうして礼拝で説教をしているでしょうし、10年後だって…と。キリスト者に求められる一つの、そして大切な生き方に、毎日を終末として生きるということがあります。祈祷書の「就寝前の祈り」、その中でこのような唱和があります。「神よ、わたしの霊をみ手に委ねます。」、「主、まことの神よ、わたしを贖ってください。」これは福音書に記されたキリストの十字架上の最後のお言葉です。また、この後、もしくは夕の礼拝で唱える「シメオンの賛歌」、これはエルサレム神殿に献げられる幼子イエスを抱いた老人シメオンの言葉です。長い間わたしは救い主の到来を待ち望んできたのだが、今こうしてわたしはその幼子を見、この胸に抱くことができた。だからもうわたしは安心してこの世を去っていく。そんなシメオンの神への賛美を毎晩唱えることに示されています。今日の一日を終わりとして生きよとのメッセージでしょう。
「今を生きる」とか、「今を大切に」という言葉をよく聞きます。「一日一日を大切に」という言葉もあります。正直なところ、毎日やってくる「今日という一日」ですが、十年前のあの大震災を経験した直後、「今」という言葉、「今日一日」という言葉の意味が少し変わったようにも感じました。しかし、そこから十年も過ぎて、そういう感覚も薄らいでしまったようにも感じます。「一日を一生のように生きる」のは、「今日さえ良ければいいと過ごす」のとは正反対です。「かけがえのない今、そして今日一日」、明日突然なくなってしまうかもしれない「今」を改めてしっかりと捉え直す必要を感じます。
キリスト教が説く今日、今とはどのような時、どのような一日なのか、それは終末へ向かう今、完成へと向かって歩む今日。約束の地へと向かって歩む途上にある「今日」です。
大きな災害であったり、新型コロナであったり…。これまで天のエルサレムに目を向けて、神の約束の地、神さまが招く祝宴に目を向けてと言ったり、考えたり、あるいは信じていたことが、揺らぐような、あるいは頭だけでそう考えていたんじゃないだろうかという出来事に直面する。この旅を歩む人びとの眼差し。わたしたちの目がどこを見ているのか、何を見ているのか、喜ぶ目、悲しむ目、迷う目、怒る目、目は多くのことを伝えます。わたしたちは「天の国」とか「救い」という漠然とした何ものかに目を注ぐのではありません。わたしたちの眼差しの先にあるものは、まさしくこのわたしに注がれるキリストの眼差しです。その目は、わたしたちの足りなさに落胆しておられたり、怒っていたり、一挙手一投足を見逃すまいと鋭く監視する目ではない、慈しみに溢れる眼差しです。この違いは決定的に大きい。終末の審きを怯えて生きるのではない。その懐に迎え入れられる日を望んで生きるのです。一日一日、しばし立ち止まり、目を閉じ、このキリストの眼差し、わたしを見つめてくださるキリストの眼差しを心に思い浮かべましょう。わたしたちは迷子ではありません。キリストの眼差しのあるところに向かって、たとえ辿々しくとも一歩一歩歩み続けるのです。
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