静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

楽園の外で生きる
司祭 エドワード 宇津山武志

鏡に自分を映す。鏡なんてものは物心ついたころから必ずあるもので、それを不思議だとか感じたことはありません。でも、鏡がなかったら、自分がどんな顔をしているか分かりませんし、髭を剃ることも、髪を整えることもできません。いや、鏡がなかったら自分のヘアスタイルなど気にすることもなかったかもしれません。鏡に映して自分を見るということ、鏡を通じて外から自分を見ることが、少なくとも自分の外観を知る上では必要なことなのでしょう。
創世記の“失楽園”の物語は有名です。その実を食べたら神のように善悪を知るものになれるという蛇の言葉にそそのかされて、人は目の前にいる人を通して自分が裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆いました。主なる神さまの足音が聞こえたときには彼らはそれでは不十分だと考え、園の木の間に身を隠しさえしました。
日々苦労や悩みの尽きないわたしたちは楽園に憧れます。しかしその楽園がアダムとエバが善悪の知識の木を食べる前の状態だとしたなら、そこにすべての知的営みは姿を消し、解放された喜びすら感じなくなるのではなかろうかと、堂々巡りに陥ることがあります。「人間は考える葦である」とは17世紀のフランス人、パスカルの有名な言葉ですが、その出発点が人間の“堕罪”にあるのだから、それはなくてはならなかったのだろうか?と。
堕罪の結果として、神は人間を楽園の外に出しました。そこで彼らは自分という存在と、また他者という存在どう向き合って生きるべきかという課題を生きることとなりました。
存在を意味する英語、イグジスト(Exist)はラテン語からきた言葉で、Ex(〜の外に)+sisto(立つ)。「存在」とは「外に立つ」ことと密接な関係がある。自分の中に留まる限りにおいて自分の存在を見つめることはできない。自分を外に置くことによって自分を見極める。なるほど、だとすると、“自分”という言葉に“分ける”という漢字が使われていることにも意味があるようにも思えてきます。楽園もわたしたちは外から見てそこが楽園であると知ることができるのでしょう。
「可愛い子には旅をさせよ」とか、「親離れ・子離れ」という言葉も、人間が存在として確立していく上では必要だということを的確に表現しているのだと改めて気づきます。
自分の城から外に出るのには勇気が要ります。さまざまな困難に痛みも伴うでしょう。自分を離れて鏡に映った自分を見つめるとき、己の醜さ、似合わない服やアクセサリーで飾り立て、鎧兜で武装していることに気づきます。でも、そうすれば、こんな指輪はいらない、こんな鎧は必要ないと、捨てていくことができます。
神の園で神の手厚い保護の中で生き続けるよりも、痛み傷つき戦いながら、人間として成長していく場所を、神ならぬ自分だからこそ、神の贖いを必要としていることへの気づきのときを、すなわち神に近づく道を、今この楽園の外で与えられているのだと思います。
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