静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報7月号巻頭言

受容ということ
司祭 エドワード 宇津山武志

主イエスの母聖マリアは、思いもよらぬ出来事によって、ご自身の懐胎、しかも救い主がその身に宿られたのを知りました。ルカによる福音書によれば、マリアは「ナザレというガリラヤの町に住む…ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ」でした。伝説では、マリアが井戸に水を汲みに行ったとき、天使ガブリエルが現れ、救い主の懐胎を告げました。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:30・31)。子宝を待ち望む人にとって受胎告知は“おめでた”、喜びの知らせですが、彼女にとっては驚きと戸惑い、恐れでしかありませんでした。そもそもいいなずけのヨセフになんと説明すればいいでしょう。マタイ福音書には、このことを知って戸惑ったヨセフが「正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、密かに縁を切ろうと決心した」と記しています。マリアにとってもヨセフにとっても、このような出来事を受け入れることは極めて難しいことでした。そもそも信じ難いこと、ヨセフにとっては不名誉なこと、マリアにとっては(ヨセフが信じ守ってくれなければ)死罪さえ免れ得ないことでした。さらに、生まれてくる子は“私生児”と蔑まれ、宗教的な意味においても律法との関係において正しくない関係によって生まれた人、救いからは遠く離れた存在となってしまいます。二人は天使によって告げられたこの“喜ばしくない出来事”を受容しました。
主イエスは、その福音宣教のご生涯を過ごす中で、祈りのうちに天の御父から示されたご自分の“さだめ”を知り、その地、エルサレムに向かって歩を進めて行かれました。道中、ひるむ弟子たちを励まし、み国の到来の宣言とそのしるしとしての癒しに専心されますが、オリブ山から眼下にエルサレムの街を望み、「エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ…」(マタイ23:37)と、涙を流し嘆かれました。そして最後の夜、ゲツセマネの園で主は悲しみ悶えつつ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。しかし主は、その祈りにこう続けます。「しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」。こうして主は、ご自分に託された神のご意志を受容されたのです。
受容によって、マリアの胎に神の子の命が宿りました。ヨセフは、マリアと胎内の子の命を守りました。主イエスの受容は、ご自身の命を十字架の上に奪われることになってしまいましたが、それが物語の結末ではありませんでした。人の手によって陰府に閉じ込められた命は、神の力によって甦られました。それは、その命が人間の力で奪うことのできない命であることをわたしたちに示しています。天使は宣言します「恐れることはない…あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(マタイ28:5・6)
人間の歴史は、昨日までの不可能を可能にする営みによって成り立ってきました。それが人間を他の動物から区別する鍵となることですし、良いことでした。その良さにわたしたちは多大な恩恵に与っています。ただその一方で、わたしたちは死を含めて受け入れることが困難なことを受け入れなければならないということから自由になってはいません。それが、わたしたちが神でなく人間であることの鍵でもあります。“受容”の先に神の光を、恵みと祝福を見出すことができますように。

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