静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ1、2月号巻頭言

挨拶
司祭 エドワード 宇津山 武志

もう随分昔のことになってしまいましたが、教会の礼拝に出席するようになってまもない頃、聖餐式で交わす「平和の挨拶」になかなか馴染めませんでした。そもそも生まれて四半世紀、喧嘩した相手と渋々仲直りの挨拶はしたことはありましたが、「平和の挨拶」なんて交わしたこともありませんでしたし、「礼拝の途中に神さまに挨拶するんならわかるけど、なんで人と挨拶交わすんだ?」なんて偉そうに思っていました。でも、祈祷書が口語に変わってまだ間もない頃でしたから、新たに加わった(実は文語の時代からもあったのですが、司式者と会衆が式文の流れの中で交わすものでした)平和の挨拶にみんな戸惑いを拭いきれずにいたのでしょう、胸の前で合掌し会釈する様子はどこかぎこちなかったことを憶えています。やがて平和の挨拶の意味や大切さが強調され、にっこり微笑んで握手、歩き回ったりもしてなかなか終わらない、礼拝の流れが途切れてしまうのにも「どうしたものか…」と感じました。
実はこのテーマを思いついたのは、先日手紙を書いていて、「挨拶」という漢字が思い出せなかったからなんです。悪いのはコンピュータですよ。言い訳がましいですが、ちょっと調べたら「挨拶」の二文字、現代の日本語では他に用いられていないらしいですね。ちょっと興味が湧いてきました。
「挨」の字は、「挨す」とかいて「おす」、「挨く」と書いて「ひらく」。「拶」は「拶る」と書いて「せまる」と読むのだそうです。つまり、「挨拶」は「開き・近づく」ことなのだと。なるほど、だとしたらあの頃のわたしは「閉じて・引いて」しまっていたわけで、まったくなっていませんでしたね。
さて、では何を開くのか。宗教的な文脈を離れても、それが「心」だということにはすぐに思いが至ります。不思議なもので、心が開いていないと、開いているはずの目や耳は言うに及ばず、舌も鼻も、何かを触って感じる手さえも感受性を失い、閉じてしまいます。子どもの頃から「しっかり挨拶をしなさい」と教わりましたし、わたしも教えましたが、挨拶がなければ人と人、そして神と人との関係も生まれ育っていかないということなのですね。
聖書で「挨拶」といってすぐに思い出すのが、聖母マリアへの天使ガブリエルの受胎告知を描いた一節です。
「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」
(ルカ1:28・29)
神が救い主=メシアを遣わしてくださる。この信仰に根ざした長い民の祈りへの神さまの答え、神さまの直接的で最終的な介入が、この「挨拶」に始まったと言っても言い過ぎではありません。マリアはこの挨拶に戸惑いました。しかしマリアは、不信心なわたしのように、そこで「閉じて・引く」ことはしませんでした。さらに驚くべきことを告げる天使の言葉に聴き、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」としっかりと問い、我が身に起こることに畏れつつも「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と開き受け入れたのです。この答えに天使は去っていきましたが、神の恵みと命がマリアの内に残りました。わたしたちも神さまからの挨拶に心を開くことができますように。

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