静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)Shizuoka St.Peter's Anglican Church, Shizuoka

TEL054-246-8013 早朝聖餐式 午前7時30分~、午前10時半~ Regular Sunday Services 7:30a.m. / 10:30a.m Eucharist

月報聖ペテロ巻頭言

おみがき
司祭 エドワード 宇津山 武志

最近建てられる教会では、徐々に希少種になってきた“ハイオルター”。わたくしたちの教会では、建て替えのときに慣れ親しんだ聖堂の雰囲気を極力そのまま引き継いでいこうということで、生き延びました。オルターの奥にはさらに一段高く飾棚が設けられ、中央には十字架と聖櫃(タバナクル)、左右対称に燭台と花瓶が整然と置かれて、聖堂全体を凛とした祈りの空間に引き締めます。これらの祭具は、多くの場合真鍮で整えられます。「真鍮の色は?」と聞かれたら、皆さん間髪を入れずに「金色!」と答えられるでしょう。確かにその通りなのですが、よく磨き込まれた真鍮は少し白味がかった薄めの金色をしています。それが月日とともに徐々に濃い金色へと変わり、ついにはまっ茶色になってしまうのです。
神学校を卒業して、初めてこの教会に遣わされた約20年前、土曜日になるとオルターギルドが念入りに真鍮の祭具を磨き込んでくださっていたのを今でも鮮明に覚えています。毎週磨きますからそんなに見違えるほど綺麗になるわけではありません。しかし日々の信仰の営みが、こうした単純で地道な奉仕に支えられているということを体験の中で学びました。
同じことがわたしたちの信仰についても言えます。ひとたびかたちづくられ、磨き上げられた信仰は、どんな嵐にも耐え、揺るぎなく立ち続けるわけではありません。日々磨き込んでいかなければならないのです。思うに信仰とは、素材としての真鍮を神さまから手渡されるようなものかもしれません。聖書の学び、聖卓の養い、祈り、奉仕、交わり…、これらを通じて、わたしたちは自分の人生に唯一無二の十字架をかたちづくり、さらにそれを磨き続けていく。“求道”から始まったわたしたちの信仰生活は、“究道”の歩みに変えられていく。それを怠ると、わたしたちの足は再び“旧道”へと戻っていってしまうのです。
パウロはコリントの信徒へ宛てた手紙の中でこのように書いています。「神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」(Ⅱコリ6:6)。うれしく喜ばしいことであるとともに、畏れ多ささえも憶えますが、パウロはそれを「このような宝を土の器に納めて」いると言い、それが「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるため」だと言うのです(6:7)。ちょっとぶつければ容易に壊れてしまう土の器を、神さまはご自身の栄光を表す道具として用いてくださいます。年齢・体力・能力に関わらず、わたしたちはすべて土の器です。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(6:16)。だからこそ、畏れ多さを超えた喜ばしさがそこに生まれるのです。
「主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
(イザヤ40:31)
さあ、今日も“おみがき”を。
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